ホーム > 宇都宮ニュース > 忘れられた巨匠 辻久(芸術院会員・文化功労章)            

宇都宮ニュースUtsunomiya_news

検索
2025.05.19
忘れられた巨匠 辻久(芸術院会員・文化功労章)

辻久 須磨夏景 昭和49年10月(1974年)名古屋画廊展示

辻 永(つじ ひさし、1884年明治17年)2月20日 - 1974年昭和49年)7月23日)は、日本洋画家広島県広島市生まれ[2]茨城県水戸市育ち[1]

人物

[編集]

広島県広島市に生まれ[2]、後に父の任地変更に伴い家族で茨城県水戸市に移り住んだ[1]水戸警察署長を務めた父の趣味が書画、骨董品の蒐集および草花、西洋野菜の育成であったことが永の絵画と植物の方面へ影響を及ぼした、と水戸市立博物館は2011年辻永植物画特別展の際に記している[3]

水戸中学校在学時代の1900年(明治33年)に白馬会会員で図画教師の丹羽林平宅に同居しつつ油絵を学び、以後東京美術学校西洋画科本科に進学し黒田清輝岡田三郎助らに師事し洋画家となった[1]

当初は山羊を中心に作画し、後年ヨーロッパへの渡欧から帰国後は樹木、草花を題材とする風景画家となった[1]。風景画では白馬会系の描写となる[1]明るい色彩を好んだ[2]。草花に関しては『萬花図鑑』[注釈 1]、『萬花譜』[注釈 2]などの著書も執筆した[1]

1947年(昭和22年)に帝国芸術院(現日本芸術院)会員となり[注釈 3]同院内で大きな役割を果たし、1958年(昭和33年)日展の社団法人化に際しても初代理事長となり、「日展の法王」と呼ばれ[1]、昭和の洋画界の重鎮として活躍した[3]。日展初代理事長は1969年(昭和44年)3月の日展改組に際し二代目理事長山崎覚太郎に交代するまで務めた[5]

1959年(昭和34年)文化功労者[6]、1964年(昭和39年)勲二等瑞宝章受章[7]、1965年(昭和40年)紺綬褒章受章[1]

1945年(昭和20年)5月の空襲の際に住居が被災し、それまでの制作作品、蒐集物の大半を焼失している[1]。死去前年の1971年(昭和48年)第5回日展まで作品出品を継続し[1]、生涯に描いた植物画は約2万枚にのぼり、うち4,500余点が水戸市立博物館に寄贈された[3]

長男・辻昶フランス文学者、次男・辻瑆ドイツ文学者

(ウイキペディア)

検索
前月 2025年7月  
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  
                   
月別アーカイブ
宇都宮ニュースランキング
宇都宮ニュースアーカイブ