中林竹洞
中林 竹洞(なかばやし ちくとう、安永5年(1776年) - 嘉永6年3月20日(1853年4月27日))は、江戸時代後期の文人画家。幕末における文人画の理論的指導者、尊王家として知られる。尾張国の生まれ。
名は成昌(しげまさ)、字を伯明、通称大助。竹洞は画号。別号に融斎・冲澹・大原庵・東山隠士、痴翁などがある。
略伝[編集]
竹洞は、名古屋の産科医・中林玄棟の子として生まれた。幼い時から画を好み、14歳で沈南蘋風の花鳥画を得意とする絵師・山田宮常に学ぶ。翌年、尾張画壇のパトロンとして知られた豪商・神谷天遊に才覚を見込まれると同家に引き取られ、ひたすら古画の臨模を行って画法を会得した。天遊に連れられ万松寺に出向いたとき李衎(リカン・元代)の「竹石図」[1]を見て深く感銘したことから竹洞の号を授けられたといわれる。このとき弟弟子の山本梅逸は王冕の「墨梅図」に感銘したことからその号を与えられた。19歳の時には絵画をもって生計を立てるにいたった。
享和2年(1802年)、恩人の天遊が病没すると梅逸と共に上洛。寺院などに伝わる古書画の臨模を行い、京都の文人墨客と交流した。天遊の友人・内田蘭著に仕事の依頼を受けて生計を立てた。30代後半には画家として認められ[2]、以後40年にわたり文人画家の重鎮として知られた[3]。墓所は京都市の真正極楽寺(通称 真如堂)にあり、墓碑に「竹洞隠士」とある。竹洞隠士とその西側にある中林家の墓はのちに住居を譲り受けた近隣住人が守っている。住居に掲げてあったサルノコシカケに記した「竹洞庵」の表札は平成まで現存した。
竹洞は『画道金剛杵』(1802)や『文画誘掖』(文政二年〔1819〕刊・弘化二年〔1845〕刊の二版があって内容が異なる)[4]といった画論や画譜を著し、著作は30種類を超える。中国南宗画の臨模を勧め、清逸深遠の趣きを表すべきであると文人としての精神性の重要さを強調している。また室町時代からの画人47人を品等付けし、その上で池大雅を最高位に置いている。
その画風は清代文人画正統派の繊細な表現スタイルを踏し、幕末日本文人画の定型といえる。中国絵画を規範に自らの型を作って作画するため構図や趣向がパターン化し、多作なことも手伝い、変化に乏しくどの作品も似たような印象を受ける。ただし、70年前後から亡くなるまでの最晩年は、筆数が少なくなり、素直に自身の心情を吐露した作品へ変化するのが認められる[5]。
長男・中林竹渓、三女・中林清淑も南画家。門人に大倉笠山、今大路悠山、勾田台嶺、斎藤畸庵、高橋李村、玉井鵞溪、梁川紅蘭がいる。(ウイキペディア)